南目家の始まり

 南目家の先祖は島根県平田市福村(現在の東福町)の出身です。

 建武中興で知られる後醍醐天皇が、元弘二年(1332年)隠岐に流された際、同行した楠木正成の一党が平田に住みついたのが始まりと言われております。

製粉業の始まり

 この家から江戸時代の寛政初期、源四郎という人物が松江に出てきて染物屋に奉公し、そこでうすを使って粉をひくことを覚え、寛政七年(1795年)茶町に「福村屋」という粉屋を開きました。これが南目家の製粉業の始まりで200年以上前のことです。

 当時の松江藩は風流人で知られた松平不昧(まつだいらふまい)公の時代で、源四郎は城内の姫君らの洗顔材として小豆の粉をひき、献上いたしておりましたが、後にそば粉、キナコを庶民の食生活の場へ供給しはじめました。

製粉業の拡大

 続く二、三代は製粉の生産増量に力を入れ、明治三十八年八束郡宍道町に水車を使った工場を建設し量産体制に入りました。

 四代社長貞市の時代(大正九年)モーターを付け動力化しました。彼はなかなかのアイデアマンで、戦中戦後の食料難の時代、イナゴや薬草を粉にしてパンに混ぜる研究を重ねたことから昭和二十七年には食糧庁から「食生活の改善に尽くした」棟の感謝状を受けたほどでした。

ポリ袋の使用

 昭和三十年代初めの南目製粉の販路は、島根県東部地方に限られておりました。当時は計り売りか紙袋売りがほとんどで、製品が長持ちしなかったためです。

 そこで五代尚範(よしのり)は香りを逃がさず、湿気も通さないポリエチレンの袋を使用するという、当時としては画期的な試みを取り入れました。

 これにより遠方でも品質を保ったまま販売できるようになり昭和三十二年には石見地方に進出し、昭和三十六年には家族総動員で大セールス作戦を展開して鳥取県進出も果たしました。

 当時のセールスはとにかく試食してもらい製品の確かさを知ってもらいたいとの一心が問屋さんの心を動かしたのではと、当時の社長夫人は述懐しておりました。

現在の工場を建設

 五代尚範(よしのり)は積極的な経営で設備拡充に努め、昭和四十一年に津田工場、昭和五十年には八幡町に新工場を建設し、製造過程の機械化を一層進めました。

 この新工場でも昔ながらの南目の伝統は続いております。新しい原料で作ると味と香りに微妙な違いが出てきます。それを社長以下全員が新しい原料でつくった製品を試食、納得し合えば初めて市場に出します。

 製品の一袋、一袋に厳しい品質管理をして市場に送り出しております。